東京都町田市立忠生中学校で1983年、男性教員が校内で、生徒を刃物で刺した事件。背景には当時ピーク期となっていた校内暴力の問題、マンモス校での学校過密化の問題、加害教員が広島原爆の被爆者だったことで普段から差別的なからかわれ方をしていた問題が指摘された。
経過
1983年2月15日午後4時頃、英語教員・Y(当時38歳)が学校内で3年生男子生徒A・Bの2人に襲われ、その際にAをナイフで刺して全治10日のケガを負わせた。Y教員はその場から逃走したが、約3時間後に家族に付き添われて自首し、警察がY教員を傷害容疑で逮捕した。
事件の背景
事件の背景としては、校内暴力の問題が指摘された。当時は校内暴力全盛期で、忠生中学校は特に「荒れた学校」として有名だったという。校内の備品が荒らされたり、教師が生徒から暴行を受けてケガをする事件も相次いでいた。また同校は1学年11クラスほどあるマンモス校になっていた。
Y教員は広島県生まれで、広島原爆で被爆している。後遺症で動作が緩慢・疲れやすいなどの症状が出ていたが、生徒らはY教員に「原爆病」「被爆者」などと差別的なからかい方をしていた。Aもからかっていた一人だった。
Y教員は「海外文通クラブ」の顧問だった。部活動では元部員のBとトラブルがあり、1983年1月にもBがY教員に暴行を加える事件が発生していた。
当日の経過
事件から約30分前、Y教員は校舎の廊下でBから襲われ、殴りかかられるなどした。そこにAも現れ、身の危険を感じたY教員は職員室に逃げ込んだ。Y教員は「Bの担任教諭はいませんか」と声をかけたが、職員室にいた教師は誰も返事をしなかったという。教頭はY教員から相談を受けたものの、特に何もしなかったとされる。
Y教員は身の危険を感じ、普段より早めに帰宅することにした。しかし校舎玄関でAとBが待ち伏せしていた。AとBは怒号を浴びせながら、玄関そばにあったモップを振りかざしてY教員に襲いかかった。その際にY教員はナイフを取り出し、Aを刺した。
その際にY教員は「おまえらがそんなことをするからだ!」「おまえらがやるから、おれもやった!」と怒鳴りつけ、駐車場のほうに去り、そのまま車でその場をあとにしたという。
事件のその後
Y教員は事件当日の夜に緊急逮捕されたが、その後釈放された。Y教員は事件後退職届を出し、また弁護士を通じて、生徒を刺したことへの反省と謝罪の意を示す声明文を公表した。
報道は第一報の段階ではY教員に批判的だったが、校内暴力の問題がありA・Bも不良グループに属していたことや、被爆者をネタにした差別的なからかいがあったことがわかると、一転してY教員に同情的になり、校内暴力批判の論調へと変化した。
東京都教育委員会は1983年3月25日付で、Y教員を諭旨免職処分にした。また管理責任として、校長を戒告処分にした。町田市教育委員会は同日付で、教頭を文書訓告処分にした。
Y教員の行為は「起訴猶予にするには重すぎる」と判断されたものの、「反省の意思を示し、教員を退職するなど社会的制裁を受けた」「ケガの程度はそれほど重いとはいえない」として、略式起訴相当だとされた。八王子簡易裁判所は1983年4月28日、Y教員に罰金10万円の略式命令を下した。
また1983年4月28日付で、事件の直前にY教員に暴力行為や脅迫をおこなったとして、A・Bの両生徒についても家裁送致の処分とした。