兵庫県神戸市西区の兵庫県立神戸高塚高等学校で1990年7月6日、同校で社会科(日本史)を担当していた細井敏彦教諭(当時39歳)が1年生の女子生徒を校門に挟み死亡させた事件。管理教育の問題がクローズアップされた事件となった。
事件の経過
1990年7月6日朝、細井教諭を含む3名の教諭が校門前で遅刻指導を実施していた。午前8時半のチャイムが鳴ると同時に、細井教諭は重さ約230kgの鉄製門扉を勢いをつけて閉めた。その際に、校門に入ろうとした女子生徒の頭を挟んだ。生徒は病院に搬送されたが同日昼過ぎに死亡した。
当日は期末試験の日だった。当日は学校への最寄り駅(神戸市営地下鉄西神中央駅)に着く電車は1分半ほど遅れ、生徒の流れはいつもよりやや遅かったという。細井教諭は時計を見ながら、8時半になると同時に門扉を閉め、当初は女子生徒を挟んだことに気づかなかった。生徒が門扉を押し戻したり大声で叫ぶなどの異変に気づいて顔をあげて、初めて事故に気がついた。
兵庫県教育委員会は1990年7月26日、細井教諭を懲戒免職処分にした。また管理責任として、当時の校長や教頭らにも処分をおこなった。学校側は細井教諭の個人的過失かのような扱いをおこなった。
細井元教諭は業務上過失致死容疑で起訴されたが、「職務命令に従っただけで過失責任はない。指導を主導した学校管理者や兵庫県教育委員会の責任が問われるべき」などとして無罪を主張した。
神戸地裁は1993年2月10日、細井元教諭に対して禁錮1年・執行猶予3年の有罪判決を言い渡した。細井元教諭は判決を不服としながら、自身や家族の心労を考えたとして控訴を見送り、判決が確定した。
細井元教諭は、有罪確定直後の1993年4月に事件に関する認識を示した書籍『校門の時計だけが知っている―私の「校門圧死事件」(細井敏彦著、草思社、 1993年4月、ISBN 4-7942-0501-5)』を出版した。
事件の背景
同校では、遅刻者には校庭を走らせる罰を科すなどの管理教育の問題があり、死亡した生徒は管理教育の圧力の元で校門をくぐり抜けようとしたのではないかということも指摘された。また過去にも、校門を閉めることで衣服やカバンを挟む軽い事故が発生していたという。しかし裁判では、管理教育についての判断を避けている。
また細井教諭自身も1976年の採用以来日常的に「体罰」・暴行を繰り返し、過去に勤務していた西脇工業高校(西脇市)・松陽高校(高砂市)でも「体罰」・暴行事件を起こしていた。松陽高校勤務当時には、顧問を務めていた野球部で部員を繰り返し殴る蹴るなどしてけがを負わせたとして、傷害罪で罰金5万円の略式命令を受けている。