豊中市立第十五中学校集団暴行致死事件

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大阪府豊中市立中学校3年の女子生徒が1991年、同級生から集団暴行を受けて死亡した事件。被害生徒が軽度の障害を持っていたことを背景にしたいじめが指摘され、障害児教育のあり方も問われる形になった。

事件の経過

大阪府豊中市立第十五中学校で1991年11月15日午後6時過ぎ、学校敷地内で同校3年生の女子生徒が倒れているところを、巡回中の警備員が発見した。警備員は職員室に連絡し、学校から119番通報をおこなった。

女子生徒は1週間後の11月21日に死亡した。

同級生の男子生徒2人・女子生徒2人の計4人が、被害生徒へ集団暴行を加えたことが分かり、警察が4人を逮捕した。

また警察の調べで、「事件の第一報を受けて現場に駆けつけた教職員らが、現場から立ち去る加害生徒の後ろ姿を目撃し、直後に生徒らを学校に呼び出して事情を聴いたが、事件関与を否定されたため警察への通報が遅れた」ということが明らかになった。

加害生徒らに対しては1992年2月、男子生徒2人と女子生徒1人を中等少年院送致、残る女子生徒1人を保護観察処分とした。学校側については、校長が事件対応による心労で体調を悪化させたために辞職が認められ、また教頭は他校へ異動措置となった。

大阪法務局も事件の調査に乗り出し、1992年3月に学校に対して改善勧告をおこない、また豊中市にも再発防止策を求めた。

民事訴訟

被害生徒の遺族は、加害生徒・保護者と豊中市を相手取り、損害賠償を求める訴訟を起こした。1997年4月23日の一審大阪地裁では、継続的ないじめがあったと認めて加害生徒の保護者に対する請求は認められた。しかし一方で、「いじめは教職員の目に届きにくいところでおこなわれたために、集団暴行は予見不可能」などとして学校の過失責任を否定し、豊中市に対する請求を棄却した。

遺族は豊中市に対する判決部分を不服として控訴した。二審大阪高裁では1998年11月19日、一審判決を支持して控訴を棄却。学校の責任を否定する一審・二審判決が確定した。

事件の背景

女子生徒は軽度の障害を持っていた。しかし女子生徒に対して障害を理由とした継続的ないじめがあり、その延長線として集団暴行事件につながったことが指摘された。

豊中市では当時、障害児を通常学級で学習させる交流教育に取り組み、障害児教育の先進地と認識されていた。そのため、障害児教育のあり方と結びつけて事件をとらえるような報道・分析等もおこなわれている。

また一方で、加害者となった生徒に対してもいじめ被害があり、いじめの連鎖となっているという視点での報道もなされた。

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